浪漫派的雑感
60年の自己欺瞞と民族否定の歴史の後で
ここ5年の間に、桶谷秀昭「昭和精神史」、「昭和精神史 戦後篇」、
ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」、三島由紀夫「英霊の声」、
そして小熊英二「民主と愛国」という本を読んできた。
その結果、やっと理解できたことだが、日本民族は、昭和20年の
敗戦とその後の占領政策によって、滅亡を運命付けられていたというだ。
特攻隊員たちの死を無駄死にだと否定してしまったあと、民族主義
は根付きようがない。
軍隊を否定し、代わりにアメリカ軍に駐留してもらうなんて、独立
国家のやることじゃない。
総力戦を闘えない民族として、自分で自分を守れない国家として、
日本人は60年間を過ごしてきた。
今となっては、イラクに自衛隊を派遣したように、アメリカの望む
かたちで、アメリカ軍の機嫌をとりながら、アメリカの世界戦略に
組み込まれる以外に、日本が生きていくすべはない。
35年前の三島由紀夫の自殺は、そこまで見とおしていたのだろう。
民族としての存在を否定されても、個人として生きることはできる。
しかし、そのときに、どのような目的をもって生きればよいのか。
あるいは、まったく無目的に生きていくのか。
私はこのところ、生きる意欲がわかない。
民主と愛国
この本の中で、ナショナリズムとは、国家や民族に関する言及すべてをさす。しかしそれでは議論はふかまらない。
私は、以下の定義を提案した。
ナショナリズムという概念は、ネイションというひとつの単語が、国家、民族、国民を表現するというトリッキーなところに注目してとらえるべきだ。すなわり、国家という統治機構と、民族という人間集団が、国民という概念によってひとつの運命共同体として認識されるように仕向け、近代国民国家の総力戦を実行するための思想が、ナショナリズムであるのだ。
そのように考えると、さまざまなナショナリズムが問題としていることの比較が容易になる。
結局、「民主と愛国」を読んでわかったのは、日本の戦後の民主主義思想で、国家を民主的に運営することを考えていたのは、終戦直後の人々だけだった。丸山真男がその代表。当時の「総力戦の延長」として民主主義を考えていた。
天皇がまったく責任をとらずに、おめおめと象徴になった(もちろんこれはアメリカの差し金でもあったが)後は、国家は封印されてしまい、ナショナリズムが国家統治メカニズムと無縁な存在になった。
誰も気づかなかったが、それ以降の日本はまさにアメリカの属国であったのだ。60年たっても、いまだにそれが国民の認識にないところが、アメリカの巧妙さといえる。
高木正勝・高木紗恵子 東京オペラシティー・アートギャラリー、山下
今日は午後休みをもらった。
何をしようかと考えて、東京オペラ・シティー・アート・ギャラリーで高木紗恵子の展覧会をみてきた。
高木正勝氏と共同で作成したビデオも上映していた。
絵画もビデオも、極彩色がとてもきれいな作品だが、輪郭のおぼろげさや登場する動物達の目の様子には、死の匂いが満ち満ちている。
人類のひきおこした地球環境問題によって、まもなくカタストロフィーがやってくる。
そのとき、少しでも、やすらかに滅んでいけるようにという思いかなと思う。
メインのギャラリーは、難波田龍起の生誕100年回顧展だが、けっこう心をひきつけられた。
・リンダ・リンダ・リンダ
その後、渋谷で山下敦弘監督の「リンダ・リンダ・リンダ」をみる。
ヤングシネマって、好きだ。
高木夫妻の明るいレクイエムより、若者たちのアモルファスな怒りや不安を歌うロックのほうが心にやさしい。
もちろん、ロックのほうが局所的であり、高木正勝・紗恵子の作品のほうが、人類史・地球史的な立場にたった諦観にたっているのであるが。
若々しいエネルギーに、安らぎを覚えた
おじさんだからなあ、
ナショナリズム
週末に「民主と愛国」の読書会合宿があり、
15,16、終章の担当をしているので
本を最初から自分の担当まで読みました
800ページ以上あって、大変でした
826ページに著者のナショナリズムの定義があります。
心情の表現手段として「民族」や「国家」という言葉が採用された状況
しかしこれって少しわかりにくくないですか。
私なりに考えてみますと、
ナショナリズムの本質は、国家(Nation)と民族(Nation)を同一の用語(Nation)で表すことにより国民(Nation)という概念を作り出し、国民は運命共同体であると擬制する思想ではないでしょうか。
ナショナリズムを構成するものとして1国家、2民族あるいは人間集団、の二つが別個にある、
このことに注意すると本書(敗戦によって日本は国家として存在することをやめてしまったので)は理解しやすくなるのではないかと思いました
60回目の敗戦記念日
60という数字は重い。
敗戦によって、主権国家でなくなった日本
戦後にこの国で起きたことは、すべて虚構であった
そういえばそうだし、そうでない気もする。
もういちど自分たちの歴史を考え直すのに今日はよい日である