我々は光の生まれ変わりである

ゴールデン・ウィークに、アメリカ・ニューヨーク州郊外にある荒川修作の遺作「バイオスクリーブ・ハウス」の見学を兼ねて掃除をしたとき、光の美しさに開眼した。ここを訪れて以来、私の中に光に対する受容体ができたようだ。

先週の土日に、東久留米市にある一九会道場という禊道場で暑気祓いに参加してきた。これは一泊二日で十回の祓いに参加する夏ならではの修行である。午前6時前に朝食を食べ終わって、私は玄関から門までの敷石の上を竹箒で掃いていた。ふと目を上げると、何かキラキラと輝いているものが目に飛び込んできた。
いったい何だろうかと思って、じっくり見ると、門を出たところにある近隣の駐車場に停められた白い車のボンネットに反射する朝日だった。車との距離は30m以上あったので、まるでご来光を見ているような気分だった。犬の世話か庭の手入れをしているのか、時折、ご近所のご夫婦が車の前をさえぎって、後光に包まれたシルエット姿を見せる。光がさえぎられて、代わりに人影が現れる光景にやすらぎを感じて、「光が主であり、我々は従だ。我々は光の生まれ変わりとして今ここに生きているのかもしれない」と思った。

ビタミンCを発見した、ハンガリー生まれの量子生化学者アルベルト・セント=ジェルジは、地球上の生命現象はすべて、植物が光合成によって、太陽から届く光子によって電子レベルを上げてエネルギーを蓄える過程と、その逆過程からなるエネルギー消費であると言っている。
これはつまり、雨も風も土も水も、一木一草すべてとそれを食べて生きている単細胞生物から哺乳類に至るまでのすべての生命体が、太陽光の生まれ変わりであるということにならないか。そして、私たちひとりひとりの人間も、その体を構成する60兆個の細胞も、細胞を構成するタンパク質も、体を動かすエネルギーも、頭の中の思考活動も、すべて葉緑体によってエネルギーに転換された太陽光の産物、光の化身、光の生まれ変わりなのではないか。

これは希望だ。禊ぎ修行のように、世俗の垢を祓い清めて、元来の太陽光に、輝きそのものに近づくことが、我々の生きていく上の目標かもしれない。

ロマノフ王家が建てたロンドン・ウォール・ビルディングス

ロンドン・オリンピックの女子マラソンで、久々にシティーの街の様子を見た。

1993年10月から丸4年間、シティーで勤務していた記憶がよみがえってきた。

ラソン選手が走り抜けたイングランド銀行の脇にウォータールー・シティー線のシティー駅があり、階段を上がって、毎朝イングランド銀行の壁伝いに北上し、ロンドン・ウォール・ビルディングという荘厳なビルに通っていた。

ロシアのロマノフ王家が、ロンドンでの執務をするために20世紀初頭に建てたビルだという噂で、階段もお城みたいにきれいだった。

オフィスは2階(日本でいう3階)にあり、3人で400平方mくらいあったから、広々としていた。

窓の下には、Finsbury Circusという公園が見えて、そこで昼休みにボーリングしている人たちの姿もみえた。

ロンドン・ウォール・ビルディングスというのが住所になっていた。EC2M 5PPが郵便番号。

ロンドンの郵便番号はよくできていて、郵便番号が正しければ、それだけで住所はいらないくらいの絞りこみができる。

ロンドン時代の想い出を、少しずつ思い出してみようかと思った。

天皇賞の馬身通過時間 - 文明の鼻先から尻尾までがゴールを通過する

 かつて5月3日は、憲法のことについてあれこれと考える日であったが、今年はまったく何も考えなかった。
 言語学情報理論を学ぶと、ヒトの言語で定められた法について考えたり、語ることが、いかに空しいことであるかを知る。もはや憲法については、考えること、語ることが、なんとなく無駄に思えてくる。

 むしろ今日私が考えたことは、マイネルキッツが競馬の天皇賞で優勝したことだ。
中央競馬の139回天皇賞・春(GI)は3日、京都競馬場の芝3200メートルに18頭が出走して行われ、単勝12番人気のマイネルキッツが3分14秒4で優勝し、重賞初勝利をGIで成し遂げた」そうだ。
 この馬の体長が正確にどれだけか知らないが、競馬では一馬身は2.4mだという。
 すると、3200mを194秒で駆け抜けたマイネルキッツの鼻がゴールを通過してから尻尾が通過するまでの時間はどれだけになるだろう。
まず馬の秒速を求め、3200 / 194 = 16.5 m/s その速度で一馬身の距離を駆け抜けるのに必要な時間を求めると、 2.4 / 16.5 = 0.15 秒
 もちろん文明も競馬も、初速と最終速度では最終速度のほうが速いだろうから、平均速度16.5m/sではなく、最高速度である20m/sを使って求めるべきかもしれない。そうすると、2.4 / 20 = 0.12秒となる。
 馬は一瞬のうちにゴールするように見えて、鼻から尻尾までがゴールを通過するのに0.15秒あるいは0.12秒かかっていることがわかる。

 さて競馬の全コース走行にかかった194秒と、馬身がゴールを通過する時間0.15秒(0.12秒)の関係をひとつの参考とし、人類文明を7万年とした場合に文明が終焉に到達してから、崩壊し終わるまでに何年かかるかを計算してみよう。
 これは、0.15 / 194 x 70000 (= 52.5) または0.12 / 194 x 70000 (= 43.3)で求めることができ、52.5年あるいは43.3年という数字が出てくる。
 今われわれが文明の崩壊の真っ只中を生きていると考えるのは、意外と的を得ているかもしれない。

希望を捨てる勇気なんてトンデモナイ!

今こそ希望をもって生きることができる時代になったのだ

 経済評論家でブロガーの池田信夫さんが「希望を捨てる勇気」というもっともらしいようで、実は完全に間違った見解をブログに掲載しておられた。それについていろいろな意見が出ているので、彼の考えが間違っていることを明らかにしておく必要があるようだ。
 それは、ひとことでいうと、今こそ希望をもって生きることができる時代であるということだ。

「日本は現在の欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのようにして成熟したのだ。「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。」
 これが池田さんの結論。人類の文明が成熟して今の厳しい経済状況がこれからもゆったりと続くという前提にたっておられる。この現状認識は、甘い。
 トンデモナイ。少し早く生まれたからリッチな生活を堪能しておられるオジ様の思い通りに世界は「成熟」しない。人類の文明はもうすでに終焉しているのである。オジ様も若者の同じ苦しみを味わう時代がすぐにくるのだ。みんなまだそれに気づいていないだけ。

 競馬は、先頭の馬の鼻先がゴールを通過するときに勝負が決まる。水泳でも陸上競技でも、選手の体の一部でもゴールに到達したら、残りの部分がゴールに到達していなくても、試合の決着はつく。
 人類の文明は、もうとっくに終わっている。おそらく鼻先がゴールを超えたのは1986年1月のスペースシャトル、チャレンジャー号の爆発と、同年4月のソ連チェルノブイリ原子力発電所の爆発の時であった。この年、世界人口は50億人を越えた。株の大暴落であるブラックマンデーもこのころ起きた。
この後に起きていることは、残りの体の部分がすこしずつゴールラインを超えているだけである。馬のお尻や尻尾にしがみついている蚤たちには、ゴールがまだ見えていないから、ノホホンと生きているだけなのだ。

 これからしばらくして、馬の体が全部ゴールを超えたときには、もっとすごいカタストロフが起きるだろう。人類文明は勢いをつけて崩れ落ちるに違いない。食糧危機、環境危機、失業、なんでもありだ。赤木智弘さんのように戦争を願望する必要はない。日々の暮らしが戦地のように厳しくなるのだから。
今は、大絶叫マシンのジェットコースターが、最高点に到達してしばし水平に移動している時間なのである。これから、想像もしなかった波乱万丈、阿鼻叫喚、なんでもありの恐怖の時代がやってくる。

 だけど、希望はそこにある。
 ハチャメチャな悲劇の時代にあっても、人は美しく生きることはできる。どんなに厳しい時代でも、希望を失わないで、前向きに生きていくことはできる。これが希望である。
 これからやってくる人類文明の破局は、人類が自分で引き起こしたものだ。だから人類である以上、この破局に責任がある。だが、これは原罪であるのだから、あなた自身には責任はない。あなたは悲劇の時代にあっても、人間の尊厳を保ち続けて、美しく、輝いて、生きることができるのだ。
そのような生き方を実践できたときに、あなたの魂は、おそらく高度経済成長やバブルの時代を生きた人々よりも、より深くて大きな喜びで満たされ、キラキラと輝くことであろう。

 人類文明7万年の歴史の結末としておきた文明の破局を心静かに見据える時代、物質的・表面的な豊かさにとらわれないで生きていける時代、人類の本当のすばらしさを確かめることができる時代、人類の本源的希望を胸に生きていける時代になったのである。
 これは大いに喜ぶべきことである。

喜劇と悲劇では、悲劇をみるときのほうがスキッとする

世界はいよいよ人類文明まるごと大絶叫マシーンになって、奈落の底に落ちていくときなのかもしれません。

1月5日に日比谷公園でホームレスのおじいさんが、「これから短い時間でたくさんの大変なことを見ることになるだろう。それを楽しむしかない」といった絶望的だけどもきわめて前向きな言葉をいっていました。

演劇でも、悲劇を観るときのほうが、僕たちの精神はすっきりする。だから、これから世界が大悲劇の舞台を繰り広げるというとき、僕たちは劇場の観客席に座っているつもりになって、世界の悲劇をつぶさにみることにしましょう。

パレスチナも、アフガニスタンも、イラクも、スーダンも、ジンバブエも、日本もどこもかしこも、未曾有の悲劇の舞台となるでしょう。

そこで観客のあなたは、私は、いったいどのようにドラマとかかわりをもつのか。

それが問われるのだとおもいます。

年越し派遣村のもつ意味について

実行委員たちは、国の政策が誤ったために、派遣労働者が路頭に迷ったから、住むところと食べるところを、国が負担せよといっているようです。

でも、それをいうなら、もっともっとたくさんの人たちを救わなくちゃいけないんじゃないかな。

年越し派遣村を、国の誤った政策の犠牲者とするのは、間違っているとおもいます。


僕は、これは、人類文明の終わりの時代に、最初に路頭に迷った人々だと受け止めたい。

つまり、派遣だろうが、正社員だろうが、これからどんどん失業者やホームレスになって、路上にあふれ出てくるだろうとおもうのです。

サブプライムローン問題と自動車産業とは、20世紀資本主義において、労働者がマイホームとマイカーの夢を与えられて、莫大な借金をして家と車を買ったことによって成長した産業でした。

この2つの産業が行き詰ったのは、20世紀型資本主義が、行き詰ったということでしょう。生産力が過剰になった資本主義が、内部崩壊をはじめたのです。

ほかの業界にも及ぶでしょう。たくさんの人が失業するでしょう。

日比谷公園年越し派遣村は、そのような時代が来ることを予感するためであり、そのような時代に私たちはどうすればよいかを考えるための思考実験だったのだとおもいます。


これから、世界は大絶叫マシンのように、奈落の底に落ちていくでしょう。

登山でも、のぼりよりくだりが難しいように、文明が落ちていくときに、どう振舞うのか、何を大事にして生きていくのか、そういったことを考えなければならない時を迎えたということだとおもいます。

NOといえる日本

question:1141044698

久々にはてなダイアリにきた

NOといえる日本って、かっこいい

でも、実態がそうでなければ、言わないほうがいい

戦争に負けて、戦後20年近くの間、鎖国状態を強いられた日本人は、自分の国がおかれた状況も理解していない人がおおいのではないかと思いました